一患者からの転身 朋美の体験

41
羅針盤としての口腔
2008/11/20(木) 00:12

羅針盤としての口腔


1
「子供と大人の境界線ってどこにあるんだろう。」
中目黒の治療院に来ている高校生の女の子が、ふと漏らしました。
そうね、わたしも子供の頃はよくそう思っていた。
でも目に見えるような境界線はどこにもないんだよ、すべて自分次第なの、って言いたかった。

昼と夜の境界線がどこにもないように。
昼と夜は互いに混じり合いながら、侵食し合いながら、揺れ合いながら、互いが互いの領分を譲り、許し合っていく中で作られていく。

男と女の関係性もそうでしょう。
男性は自分の想いを女性に伝え、女性はその想いを身にまとい、光と影が混じり合うように、揺れながらひとつになっていく―。


2
女性が内なるエネルギーや愛を広げるための、対象や場を求めるものならば、男性はエネルギーや愛を、目に見える形や物理に求めるもの。
二つのエネルギーは互いに競い合うことなく、出会い、まったく次元の異なるものとして変容する場があるでしょう。

―内側と外側の出会う場所―
―陰と陽が出会う場所―
―肉体と意識が出会う場所―
―イメージと現実が出会う場所―

それが、もし自分の口の中の空間、つまり口腔にあるとしたらどうでしょう。
なにを言っているのか?と思うかもしれません。

口腔で発せられた言葉が、そのまま現実になるのは、言葉の力を活性化させる、口腔という空間の影響があるからかもしれません。
たくましい木々を育てるのが、豊かな養分を保っている土壌に負っているように。

愛がなくてはキスが出来ないのは、口腔が強力なエネルギーの磁場になっているからかも。
愛しいものを口に含みたくなるのは、口腔が愛というエネルギーを知っているからかも。
愛に飢えた子どもが指を口に入れるのは、口腔が愛に変わるエネルギーをつくり出すからなのかも。

量子場講座では、口腔内がエネルギーが行ったり来たりしている場であるということを、噛み合わせの強弱で体験できます。
イメージによって噛み合わせが変化することを感じられるならば、何かが口腔内にあると思いませんか。


3
院長が開発した量子場の技術は、大脳と小脳との太いパイプを築いていくことでもあります。
大脳が発した言葉とイメージが小脳に送られるのは、口腔が媒介として仲立ちしているのかもしれません。
口腔の後ろに控える小脳が、直接的に口腔内を観て、口腔内で発せられたメッセージのまま量子の場をつくり出す―。
なんてドラマティックで、美しい出来事なのでしょう。

口腔に発せられた言葉に従って、身体や意識の場をつくることができ、それを口腔内において確認できるとするならば、口腔は、わたしたちを導く羅針盤、灯台のようだといえます。
自分が進む世界の指標となり、わたしたちを道案内してくれる。

道具や装置を持つ必要もなく、自身の身体がすでにそれ以上の機能を備えていたのです。
ただ、道具を活性化させるために、方法が必要なのです。


4
たまには素直に気持ちを言葉にして言ってみませんか。
理由づけしたり、言い訳をしたりしないで、
相手を非難したり、自分に都合よくコントロールしようという意思ではなく、
自分の気持ちを率直に言ってみましょう。

愛しているなら「愛している」と言えばいいのです。
うれしいなら「うれしい」と。
その言葉が、現実を変える力になるかもしれませんよ。

外側の世界にばかり翻弄される人生でなく、内なる力で、口腔内で発せられた言葉で自分の人生を切り開くことができます。
そこに子供と大人の境界があるのかもしれません。
もちろん、ただ言えばいいというわけではないですが。

わたしが、これからそれを自分の人生で証明していきます。
楽しみにしていてください。

40
女であるということ
2008/11/19(水) 00:08

女であるということ


1
いままで自分の女性的な面は、外側からの要請によるのだと思っていました。
男性の前だからとか、世間的にまずいからとか、良識のある人に思われたいから、とか。
レストランのドレスコードのように、状況に応じて従うものだと考えていました。

でも、女であるということは、そういうものとはまったく違うことが分かりました。

女であることは、植物が地上から養分を吸い上げて空に向かって大きく広がるように、垂直に立っていること。
それは、筋肉の力で力強く立っているのではなく、身体が空へ向かおうという内側からの意志を持っているかのように、力みなく気持ちの良い状態であること。
どこにも余分な力がないのにもかかわらず、重力に耐えうるほど強く、またしなやかで、自分自身であるという悦びにあること。

量子の場を身体に映し出すと、誰でもそのことがよく分かるでしょう。
女性は、社会的な制度における「女」ではなくて、身体も脳もまるごと、すでに女だったのです。


2
中学生の頃から現在まで、度々自分のことを「僕」と言ってしまいます。
無意識に出てしまうので、わたしの男性的な一面がそうさせるのだと思っていました。
しかし、それはわたしの意識的な表現方法で、照れと一種のアピールから出ていたのです。

女としての表現方法が分からない、という理由もあります。
身体は女としての美を追求したいと思っているのに、それに対する自意識や照れがあるのかな。
セクシーなドレスを着ながら、ヤクザのようにガニマタでのっしのっしと歩いている感じ。
物心ついてから、いつもそんな分裂した感じを抱えていました。

女であることの気恥ずかしさ、身体や機能が男性と異なることを直視しないよう、女性性をあえて否認してきたところもあるのでしょう。
男であるように男友達と時間を過ごすのが、解放的で自分らしい気がしました。

そんなふうに女性性から逃れれば逃れるほど、自分が女であることに否応もなく気づかされる場面に遭遇します。
自分の意識と、まわりの見方がどんどん離れていくのです。

女であることを、ただ素直に受け容れられないだけだった。


3
自分自身の中に潜む「女」に気づいたのは、小学6年生のときです。
姿見に映る後ろ向きのお風呂上がりの裸身を見たとき、「何だ!」と思いました。
波打つ身体のラインは、すでに成熟した女のそれでした。

初潮や胸のふくらみで、否応もなく女性は自身が女であることに気づかされます。
男性が社会的な要求で「男」になるのに対して、女性が女であることはもっと自然なことです。
ただ、自分自身の身体に焦点を合わせればよい。
そうすると、内側から込み上げてくる「女」の自分が、いつの間にか自身を支える要になっていることに気づくでしょう。

男性より力がないのは、決して劣っているのではなくて、その力を受け容れることが出来るということ。
男性を真似ても、決して本来の自分自身になれない。
もういいかげん、自分自身に向き合っていかなければ。
「僕」から卒業して、「わたし」という女になろう。


4
女性性を否定してきたのは、10、20代の頃の母に対する嫌悪感もあります。
弱い自分、女々しい自分、感情的な自分に会う度に母の姿が重なり、埃を振り払うように、そんな自分自身を否定してきました。
しかし、否定するのは、逆にそれに強固に捉われているせいでしょう。

捉われないことを決意したときに、人はそれを超える準備ができる。
母を受け容れることは、彼女の存在と自分を切り離せたことです。
そこから、自分の女性性を許すことができたのかもしれません。
女になるということは、大人になることを意味するのでしょう。

成熟した大人であること、年を経ることは素敵なことだと思わないのは、現代人が自分の身体に対して意識が低いからなのかもしれません。

身体の形を意識すれば呼吸が広がり、美しさに焦点を当てれば身体はすっと垂直にのび、愛を意識すれば顔は母のようにゆったりとくつろぐ―。

女であることは、自分自身と一体であるということなんだ。
この悦びを、みんなに伝えたい―。

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未来へ架けるイメージ
2008/11/10(月) 14:10

未来へ架けるイメージ



アヤ先生のハイキングの記事
http://cplus.if-n.biz/5001529/article/0097433.html
に触発されて、わたしも、登山について書きたくなりました。

父が山好きだったこともあり、子供の頃から、ぶどう狩りやキャンプなど連れて行ってもらい、富士山から八ヶ岳など、さまざまな山に慣れ親しんできました。

10歳のときの夏休みに、家族である山にキャンプに行きました。
頂上へ向かう途上、八合目にさしかかった頃、疲労と不注意から、崖から一気に約100メートルも落下してしまいまい、九死に一生を得たのです。
その後も1ヵ月下がらない熱に悩まされました。
落ちたときに負傷した左頬の傷痕は現在でもあり、一生消えることはないでしょう。
でもこの傷は、自分自身の勇気に対する証だと思っています。



人はなぜ高いものに登りたがるのでしょうか。
エベレストや世界有数の山々を、莫大な資金と労力を費やしても、制覇することに歓喜するのはなぜでしょう。

ひとつには、未知なもの、永遠なものに対する憧れがあるからでしょう。

いみじくも、ドイツの南部ミュンヘン近くには、''Jungfrau''「若い女性」という名の山があります。
なだらかな嶺脈を持つ女性的な山に、古から多くの男性達が冒険心を抑えられず、その山に自らのヴィジョンを映し出してきたのかもしれません。

富士山は、体力さえあれば踏破できる、優しい女性的な山ですが、ヨーロッパの山々はそうはいきません。
乾燥した大地に、猛々しい岩をむき出しにして、空に向かって垂直に聳え立つ山々。

北イタリアからスイスとオーストリアにかけてまたがる、Gran Paradiso、Monte Rosa、Marmolada、Cortina D'Ampezzo、 etc...といった山々を1週間かけて、ドイツ人の友人と毎日一つずつ制覇していきました。
一度としてへこたれことなく、4000メートル超級の山々を制覇することができたのは、いまでも大きな自信に繋がっています。

ロッククライミングが初めてばかりか、もともと高所恐怖症だったわたしは、毎日極度の緊張の中、胃液を出しながらも、地上から遥か上空に架けられたつり橋を渡ったり、足の幅ぎりぎりの道で、転落すれば即死という山脈を歩いて、挑み続けました。

登山の最中は何も考えず、ただ目前の岩をつかみ、足場を築いて身体を支えながら、ひたすら登っていくだけです。

難易度の高いある山では、岩と岩の間をくぐりぬけて登る道で、担いでいたリュックが岩間につっかかり、身動きがとれなくなってしまいました。
岩にはさまれた状態で、真下はどこまでも何もない空間の中、50階位のビルの高さに宙ぶらりんの状態です。

泣きべそをかきながら、はるか頭上にいるパートナーに「もうダメだ、動けない...。もうダメだー。」と訴えると、
’’Yes, You Can! Yes, You Can!’’ という能天気な声ばかり。
てめえに何が分かるんだ、ちっくしょー!と思ったとたん、フウッとどこからか風のように力がやってきて、むんずと両手で岩をつかみ、自分の体重を支えながら、なんとかリュックと身体を引っぱり出し、不可能と思えた難所から脱出することができたのです。



あの力はどこからやってきたのか―。
今から思うと、わたし自身のイメージの力なのかもしれません。
「できない」から「できる」に思考をスイッチしたとき、その「できる」というイメージが、わたしの身体に力を復活させ、危機を脱せたのだと思います。

一方、「もう、ダメだ。」と思ったとき、わたしの頭の中にあったのは、過去のさまざまな「ダメ」な経験たちです。
そのときのわたしには、過去のダメだった経験の記憶が蘇ってきて、そのイメージに捉えられたという感じです。
言いかえれば、そのときわたしは現実そのものではなく、過去のダメだったイメージを観ていたのです。

なぜ人が失敗するかというと、大半は目前で起きている事実そのものを直視することなく、過去のイメージを観ていることから生じるのではないでしょうか。

まっさらな状態で、何かを判断するのは難しいのだと思います。
判断するとは、何かと比較することを意味します。

例えばあるワインを飲むとしましょう。
そのとき人は、これまで過去に飲んだワインの味と比較しつつ、より酸味がある、渋みが感じられる、まろやかな味、というように味を判断していくのではないでしょうか。
ワインを飲んだ経験がない場合、他の飲み物と比較していく、という形において、現実の体験を判断するのだと思います、

つまり、すでに過去の経験をなぞっていくことにおいて、現在の経験を判断・定義しているのです。
だとすれば、問題は判断しよう、という自分自身の意図がつくり出しているといえるでしょう。

事実がどうあるかは、直面している自分自身がつくり出しています。
いま経験していることを、早急に判断しようとせず、いいとか悪いとか決めつけようとせず、ただいまこのときを何も考えず生きよう、というようにすれば、より創造的に楽しく生きていけるのだと思います。



ヨーロッパの山を登って印象的だったのは、どの山の頂にも十字架が置かれてあったことです。
どんな場所でも神はおり、どこにいても神は自分自身を見ている、というように感じました。

同様に、どんな現実にするのも自分自身です。
自分自身が、この世界の神であるといえるでしょう。
世界をどのように味わい、どのように創造するかも自分自身です。

頭の中で認識できることは、すべて現実化することができるのではないでしょうか。
ダメにするも、素晴らしいものにするのも、すべて自分自身の認識次第です。

米国の新大統領のキャッチコピーではないですが、’’YES, YOU CAN !’’の意志で、危機に直面したときも、灰色の世界を自分自身の色で塗り替えていきましょう。

量子場調整とは、量子の場を活性させ、意図したイメージを置き、現実を変化させることです。
自分自身の中に眠っている、本来持っている力を顕現させ、未来へイメージを築いていくことです。

ほんの前まで、アメリカの大統領にアフリカンネイティブの人がなるなんて、誰しも考えられなかったでしょう。
しかし、彼はそれをやり遂げ、世界はそれを容認しました。

認識できることに、不可能なことはないのです。
''No, I can't.'' と言うのは、誰しももうこりごりなのではないですか。
’’YES, I CAN !’’の言葉を未来へ架け、自分自身の力で世界を新たに獲得していくことが、わたしたちにはできるのですよ。

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